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死とは何か イェール大学[第2講]二元論と物理主義

死とは何か「死後の生」はあるだろうか?

誰もが身体が死んだら、もう呼吸もしないし、立ち上がることもしないし、最終的には腐るだけ、いや今は火葬されて骨になるだけです。このことはみな真実と分かっているので(納得しているので)、上の問いはこうなります。

自分の身体の死後も、私は存在しうるだろうか?

 この疑間に答えたければ、まず、[私とは何か」について、もっとはっきりさせておく必要がある。
なにしろ、人間が自分の身体の死を生き延びられるかどうかは、(少なくとも部分的には)人間がどのように「構築」されているか、すなわち、人間は何からできているか、人間の構成要素とは何かにかかっていると考えるのが理にかなっているのだから。
私たちは、人問とはいったいどういうものなのかを知る必要がある。哲学の専門用語では、これは「人間の形而上学についての疑問」という。

死とは何か、二元論と物理主義

この疑問については、二つの基本的な立場があります。

  1. 二元論:人間=身体+心(魂)
    私たちは身体ではないもの、分子や原子からはできていないものを持っている。つまり、心(以後「魂」と呼びます)を持っている。
  2. 物理主義:人間=身体
    私たちは意志をもち、計画を立て、恋に落ち、書いたり読んだりし、考えたりします。これらのことすべてできる「ただの身体」である。つまり、魂などない。だから、死んだら「死後の生」はありません。

この二つの考え方に共通しているのは、「身体はある」ということです。そして、二元論では、私、つまり人間は魂であるということ。身体は私の重要でない一部分、あるいは身体は私の一部ですらない。
また、魂は身体をコントロール(命令)し、身体は魂に影響を及ぼします。たとえば、手を怪我すれば、私(魂)は痛いと感じます。だから、二元論で気になる次の疑問は……

私の身体が死ぬ時、私の魂も死ぬだろうか?

魂が身体の死を生き伸びるとしたら、魂は永遠に存在し続けるのだろうか?

誰でも、ふつうはそうあってほしいと思ってはいます。魂の不滅性については[第5講]プラトンの見解で詳しく出てきそうです。

※[第2講]では、物理的存在は心が考えているだけで、実体としては存在しないという観念論や他の考え方はとりあげません。

ところで、著者シェリー・ケーガンは、二元論の「魂」の存在を信じていません。

死とは何か「物理主義」から見た「私」

私たちはただの鉛筆ではなく、考えることができる身体だ!

人間が手に持って使わなければ、鉛筆自体は何の行動もしません。ラジカセはスイッチを入れなければ、サウンドを出しません。スイッチを入れても落として壊せば、もはやサウンドを出すことはできません。しかし、人間はただの物体ではありませんが……

人間は、考え、意志を疎通させ、合理的に思考し、計画を立て、物を感じ、創造性を発揮し、愛し、夢見ることをはじめ、その他もろもろのことができる身体なのだ。

物理的存在を人間たらしめている能力を「person」の「P能力」と呼べば、人間が生きていることは、P機能をしている身体ということになります。

死とは何か「物理主義」における「心」

 物理主義者の視点からは、心について語るのは、身体の持つさまざまな知的能力について語る方便にすぎない。
私たちはこのように、身体の持つ能カについて語るとき、名詞化を行なう。さまざまな能カについて、「心」という名詞を使って語る。だが、心について語るのは、身体がきちんと機能しているときに持っている、これらの特別な能力について語るーつの方法にすぎない。

たとえば、微笑みは微笑むという身体能力につい語る一つの方法で、何か特別なものとして「微笑み」が存在するわけではありません。

 それならば、物理主義者によると、について語るのも同様に、さまざまなことをするという身体の能力について語る一つの方法にすぎないことになる。心について語るのは、私たちの身体が考えたり、意思を疎通させたり、計画を立てたり、検討したり、創造性を発揮したり、詩を書いたり、恋に落ちたりすることができるという事実について語る方便にすぎない。
「心」と言ったときには、こうした能力のいっさいを指して語っているのだが、身体以外に、心という何か別のものがあるわけではない。

物理主義者は、心がないと否定しているわけではありません。だからと言って、心は脳ではないのです。ややこしいですね。脳が先にあげたP機能をしている時に心があるのです。死んだ脳は機能が停止しているので、心がないことになります。

では、身体が生きている脳死について、私はこう考えました。心がない、ただ生理的に生きている身体だと。だから、最終的に身体も死ねば、人間は死んだことになります。

シェリー先生が物理主義を支持する理由

強調しておく価値のある点がもうーつある。すでに説明したように、物理主義者は心かあることを否定しない(私たちが、微笑みがあることを否定しないのとちょうど同じだ)。それでも、心について語るのは、身体ができることの一部——身体は考えたり愛したり計画を立てたりできるという事実——について語るためのーつの方法にすぎない。

だが、私たちは考えていると錯覚する身体にすぎないというのが物理主義者の見方であるわけではない。違う。私たちは現に考える身体だ。現に愛する身体だ。現に計画を立てる身体だ。だから、本当に心は存在する。

物理主義者は、二元論者が信じているような非物質的な魂の存在は断じて認めていないだけなのです。

あなたは、二元論者ですか? 物理主義者ですか?
あなたは「魂」を信じていますか? いや、「魂」があってほしいと願いますか?

終わりに

正直、私にとっては死とは何か[第2講]二元論と物理主義は、読まなくてもよい内容でした。
ただ、面白いのは、心は身体の機能の現れだとする考えは、普通の人々にはあまり馴染みがないかもしれません。
また、AIが世の中に広まってきた現代には、そういう物理主義的考え方は何かの役に立つかもしれません。