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死とは何か イェール大学[第4講]デカルトの主張

死とは何か[第4講]デカルトの主張 読む必要なし⁉︎

形而上学って、こんなに馬鹿馬鹿しいのか!
と思ってしまうほど。

  • 死とはなんだろう?
  • 死んだら何もないのか?
  • 死とは、夜寝て、夢を見ないまま、朝になっても起きないこと?
    その人が呼吸をしていなければ、家族や周りに人は慌てるだろうが、本人は全く何も感じないし、意識はないのだろうか……

と悩んでいる人にとっては、全然ピンとこない。形而上学を否定している訳ではありません。ただ、ご自由に言葉を弄んでいてください、とだけ言いたくなってしまう。

一体、形而上学ってなんなんだろう?
一体、形而上学って何の役に立つのだろうか?

デカルトの主張デカルト(フランス・ハルス画)

ということで、[第4講]デカルトの主張 は目次と、シャリー先生の論点だけ抜粋しておきます。
ただ、宵の明星、明けの明星の例えは、分かりやすいです。が、何の意味もありません。

[第4講]デカルトの主張 目次

デカルトの二元論——身体かり切り離された「心」は十分想像できる
「存在」と「非存在」は同時に起こりフるか?
デカルトの二元論を巡る議論
宵の明星、明けの明星——デカルトの二元論への違和感
デカルトの主張はどこで道を誤ったのか?
金星に関する主張の検証
「想像できる」は錯覚か?
「想像できれば論理的には存在しうる」は幻想か?
「想像」が導く論理的可能性は、当てにするに足るものなのか?
「論理的にありうることが、そのまま現実に起こりうる」とは限らない⁉︎
「同一性」は偶然的でありうるか?
デカルトの二元論についてのシェリー先生の考え

 どんなに控えめに言っても、デカルトの示しているような主張は誤った方向へ簡単に導かれうることを、金星の例は示している。
もちろん、たとえデカルト風の主張が不合理であっても、デカルト自身の主張は妥当なものである可能性は残っている。こうした問題をもっと綿密に検討すれば、デカルトのもともとの主張がどうにかして避けて通った間違いを、金星にまつわる主張が犯していることを示せるかもしれない。その可能性はたしかにある。
だが、私の見るところでは、どちらの主張も不完全で、心は身体とは別個のものであることを立証しようとするデカルトの試みは、成り立たない。

ニ元論と魂に関するまとめ

 ではここで、現状を考えてみよう。これまでの二講を費やして、魂の存在を支持するさまざまな主張を検討してきた。
そのなかには心をそそられる主張もあったが、うまく成立するものはこれといってなかったように思う。実際、たとえ本書の考察のこの部分を続け、二元論を支持する他の主張をさらに検討したとしても、同じ結果になるだろうというのが私の見方だ。
私の見る限りでは、魂(身体から切り離された別個の無形物、意識の在り処)の存在を立証しようとする試みはすべて、けっきょくは成立しない。そうした主張はみな、最後には不首尾に終わる。
したがって、私が到達した結論は懐疑的で、魂の存在を信じるべき真っ当な理由はまったくない、というものだ。私たちは二元論を退け、物理主義を受け容れるべきだ。