死とは何か イェール大学・完全版要約[第7講]魂説、身体説、人格説?

[第7講]魂説、身体説、人格説

[第7講]魂説、身体説、人格説——どの説を選ぶか?

[第6講]であげた人格の同一性についての説の、魂説、身体説、人格説のどれを選択すべきか?
[第7講]は、302〜367pで3/4ページを占めていますが、全く読まなくてもいい内容でした。SF世界での空想の考察話です。今は、まだまだ現実にはありえません。

あなたと、向こうにある女性がいます。ふたりの人格を交換してから拷問をする場合、女性の身体に写っているあなたに尋ねます。
「どちらの身体を拷問しますか?」
「私がいた元の身体を拷問してください」が答えだと思います。

では、あなたと女性の人格をすべて消し去って、拷問するとしたらどちらを選びますか?
「女性を拷問してください」
と、答えると思います。元の身体にいるのはあなたなのですから。

また、ナポレオンの人格が別の人(身体)に移ったとしたら、その別の人は果たしてナポレオンであるのか? さらに、二人の別の人(身体)にナポレオンの人格が移ったら、二人ともナポレオンであるのか? 否か?

様々な条件で考察していますが、形而上学は「いかに生きるか、いかに死ぬか?」悩んでいる人にとっては、SFのような仮定の話を聞いてもなんの意味もありません。

「生き延びること」だけが、本当に大切なことなのか?

[第7講]370pになって、やっと聞きたい内容が出てきました。

「ただ生き延びること」つまり、存続するだけではダメなんです。

生き延びる上で大切なのは何か?
望んでいたものは何か?

しかし、この答えは[第7講]にはありません。
やっと、やっと聞きたい内容が出てきたのですが、まだ[第7講]は形而上学ですから。

 私たちはずっと、「私が生き延びるのには何が必要か」という疑問を投げかけてきた。
だがここで言いたい。じつは、それは私たちがこれまでずっと考え続けてこなければならないような疑問ではなかったかもしれない、と!
「人格の同一性」にまつわる主要な説のあれこれを検討し終わるまで、それに気づく立場には立てなかっただろうことは確かだ。だが、もうここまで来たのだから、ようやく決定的に重要な疑問を提起することができる。

私たちは、生き延びるためには何が必要かを間うべきなのか?
あるいは、生き延びる上で大切なのは何かを問うべきなのか?

 たとえ「人格の同一性の身体説」が、「人格の同一性」の正しい説だとしても、私は、それがどうした、と言いたい。本当に肝心な疑問は、「私は生き延びるか?」ではなく、「生き延びたいと思ったときに望んでいたものが手に入るか?」だ。
そして、じつのところ、同じ身体を持っているだけでは、それが手に入る保証にはならない。私はただ生き延びたいのではない。同じ人格を持って生き延びたいのだ。

 したがって、これまで注目してきた、「生き延びるためには何が必要か?」という疑問そのものが、的外れだったかもしれない。本当の疑間は、「生き延びるためには何が必要か?」ではなく、「何が大切か?」なのかもしれない。
当然ながら、通常の状況では、大切なものを手に入れることは、生き延びることでもある。普通は、生き延びることが、大切なものを手に入れる唯一の道だ。
だが、少なくとも論理的には、両者は分離しうる。そして、本当に大切なのは、生き延びること自体ではまったくなく、同じ人格を持つことだ。

[第7講]魂説、身体説、人格説ーどの説を選ぶか? 目次

「人格の同一性」の核心に迫る2つのケース

身体か、人格かー「あなた」はどっち?/利己的な視点——で考える/「私」を見極めるための思考実験①/「身体だけの私」と「人格だけの私」——けっきょく、「私」はどっち?/「私」を見極めるための思考実験②/「人格を失った私の身体」と「私の人格を与えられた他人の身体」——けっきょく、「私」はどっち?/「人格の同一性」と直感に関する哲学的混乱/人格と脳——切り離して考えうるか?/「人格の同一性」に関する悩ましい食い違い

複製——「人格説への異論」から、身体説の有効性をたぐり寄せる試み

人格説への異論①「私はナポレオンだ」という人はみな、ナポレオン?/異論①への回答——人格は一要素ではなく集合体/人格説への異論②ナポレオンの人格そのものを持っていれば、ナポレオン?/ナポレオン視点で人格説を想像する/「ミシガンのナポレオン」に違和感を持つ人へ/異論②への反応——だから人格説は支持し難い/人格説への異論③ナポレオンの人格さえ持っていれば、何人いてもみなナポレオン?/「ミシガンのナポレオン」の誕生プロセス/ミシガンとニューョークー本物はどっちだ?/「ナポレオンが分裂した」場合/人は分裂できるのか?/「じつは2人ともナポレオンではない」場合/「2人ともナポレオンではない」場合の落とし穴と、異論③の影響力/改訂・人格説——分岐後はみな、元の人とは別の人になる/「改訂・人格説」が持つ致命的欠陥/「分岐なし」ルールと「人格説」についてのひととおりの回答

分裂——「人格説への異論」は身体説をも破綻に導く⁉︎

「身体は複製できない」のウソ/身体説についての検証——もし、脳を分けることができるなら?/シェリー・ケーガンとレフティー、ライティー/分裂した時点でシェリー・ケーガンは死んでいる⁉︎/身体説の限界/「他人の存在」によって「私が私でなくなる」矛盾/人格も身体も分裂できる……では魂は?/分裂ケースと魂説/可能性①魂も分裂できる場合/魂説も分裂には勝てない/可能性②魂は分裂できない場合/「魂が誰のものか」は当事者にも傍観者にもわからない/「分裂しない魂説」が持つ大問題——魂なしの人が生まれてしまう?/可能性③魂なしなら「人は目覚めない」?/「複製なし」「分岐なし」は人間そのものに課せられた性質なのか?/身体説と人格説——受け容れるべきは、けっきょくどっち?

「生き延びること」だけが、本当に大切なことなのか?

「生き延びること」を「かけがえのないもの」にする条件/「魂だけ」生き延びることの意味/「身体だけ」生き延びることの意味/課題の整理——私たちが本当に重視していることは何?/大切な「何か」の正体/「人格説」の盲点/「まるで別人」でも「生き延びた」と言えるのか?/シェリー先生が「生き延びる」ために望むもの/「生き延びること」と「今と同じような人格を保つこと」——どちらがより大切か?/「今の私」という人格抜きで生き延びることは、けっきょく無意味

終わりに。死は本当に一巻の終わり!

死は本当に一巻の終わりだと思う。
私の終わりであり、私の人格の終わりだ。それこそが、紛れもない事実のように思える。死ねばすべてが終わるのだ。

著者シェリー・ケーガンは、最後にこう締めくくりました。
では、「死とは何か」この後の[第8講]以降は、何が書いてあるのでしょうか?

「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版

【日本縮約版】で省かれた形而上学部分[第2講〜第7講]を何とか読んできました。正直、この【日本縮約版】でよかったかもしれません。
しかし、一応形而上学のベースを読んできたので、[第8講]以降は理解しやすいと信じています。また、シェリー・ケーガンという著者の考察の仕方など理解できていますから。

【死とは何か】スタートです。

読書感想
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