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死とは何か イェール大学[第8講]死の本質

[第8講]死の本質 シェリー先生の哲学的回答

27ページしかない[第8講]死の本質。[第7講]の最後でいよいよ聞きたい話になるかなと思ったのですが、あい変わらず、身体説では〇〇、人格説では△△、という話ばかり。なので、最後のシェリー先生の哲学的回答をあげておきます。

 科学の観点から解明するべき詳細はたくさんあるかもしれない。だが、哲学の観点に立つと、ここでは何一つ謎めいたことは起こっていない。身体が作動し、それから壊れる。死とは、ただそれだけのことなのだ。

人間の誕生から、いわゆる死までの考え方

私が死んだのはいったいいつ?

図:人間の誕生から死まで1

【A】誕生から、まだ「私」自意識を持たない期間
【B】
人間しての人格を持った人間
【C】
【B機能】Body=Bで、心臓は鼓動し、肺は呼吸し、胃腸は食物を消化するなどの体の機能

【P機能】Person=Pで、考えたり、愛したり、意思疎通をしたり、物事を認識したりする機能(人格)

普通は、「✳︎」が死んだ時点です。

 きちんと機能している人間の身体について考えてほしい——たとえば、みなさんの。みなさんの身体は、現在じつにさまざまな機能を実行している。単に食物を消化したり、身体をあちこちに移動させたり、心臓を拍動させたり、肺を広げたり縮めたりといった機能もある。それらを「身体機能」、略して「B機能」と呼ぼう。もちろん、それ以外にももっと高次のさまざまな認知機能があり、それを私は「P機能」と呼んできた。さて、おおざっぱに言って、身体の機能が停止したときに人間は死ぬ。だが、機能と言っても、どの機能のことだろう? B機能か、P機能か、はたまたその両方か?

この疑問に対する答えははっきりしない。なぜなら、普通はむろん、P機能はB機能と同時に停止するからだ。SFの世界を別とすれば、P機能はB機能あってこそのものだ。だから私たちは普通、どのタイプの機能が死の瞬間を定義するために注目するべき種類の機能かなどと自間する必要はない。私たちは両方の機能を、ほぼ同時に失うのだ。

だが、どちらの機能の喪失の方が決定的だったのか?

 想像してほしい。私が恐ろしい病気にかかり、P機能としてひとまとめにしている高次の認知プロセスにいずれいっさい携われなくなるとしよう。ところが、ここが肝心なのだが、そのときからしばらくの間(数か月、あるいは数年)、私の身体は相変わらずB機能をいつもどおりこなせる。もちろん、最終的にはB機能も果たせなくなる。だが今考えているケースでは、P機能がB機能よりもずっと前に停止する。それを示したのが次の図だ。

図:人間の誕生から死まで

【D】昏睡状態や脳死。体は機能している。
✳︎1
=昏睡状態や脳死の始り(本では「脳死」という言葉は使っていません)

体の機能停止をもって死とする身体説は、「C」が死です。人間らしい機能停止をもって死とする人格説は、「D」が死です。

このように、身体説から見た「死」、人格説から見た「死」は違ってきます。哲学的に考えると、微妙な問題が出てきます。
それが、「脳死」です。「脳死」は死なのか? 「死」ではないのか? ふつう、医学的には「脳死」は、まだ死んだとは言いません。脳「死」と、死という語句は使っていますが。

最初に「シェリー先生の哲学的回答」をあげておきましたが、次の「臓器移植」は、昏睡状態や脳死を考えさせる考察でしたのであげておきます。

「臓器摘出」は、道徳的に正当化できるか?

殺されない権利を持っているのは誰?
生存権を持っているのは私なのか、それとも私の身体なのか?
あるいは、ひょっとすると、そのような権利は二つあり、一方は私が、もう一方は私の身体が持っているのか?

もし私の身体が生存権を持っているとしたら、私がすでに死んでいるときにさえ、心臓を摘出するのは現に不道徳だ!

だが、生存権を持っているのが私だけなら、つまり、身体ではなく人格を持った人間がその権利の持ち主だとしたら、みなさんが私の心臓を摘出するのは、おそらく許されるだろう(念のため、私の家族の同意を得ておいたほうが良いかもしれない)。その結果、私の身体が死ぬことになったとしてさえ。そうしたところで、私の生存権は実際にはまったく侵害されないからだ。

たしかに、人格説を受け容れても道徳性にまつわる疑問は解決しない。だが、人格説を受け容れることで、この議論は目をみはるような展開を迎える。すなわち、「身体を殺すのは、それによって人格を持った人間を実際に殺したりしない限り許される」と主張することへの扉が開かれるのだ。

[第8講]死の本質 目次

私が死んだのはいったいいつ?
「身体の死」VS.「認知機能の喪失や脳の死」……人が本当に死ぬのはどっち?
「存在しないのに生きている人間」という矛盾
「人間」であるのは、私たちの人生の「ほんの一期間」!?
「心臓移植」と「殺人」の確かで不確かな境界線
臓器摘出は道徳的に正当化できるか
「睡眠」と「死」は厳密には区別できない!?
生死の境はじつは暖昧
昏睡状態の生死を見分けるケース①ただスイッチが切れているだけ
昏睡状態の生死を見分けるケース②致命的に破壊されてニ度と戻らない
冷凍睡眠でさらに生命の輪郭は暖昧に
死とは何か——シェリー先生の哲学的回答