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明智光秀

『本能寺の変 427年目の真実』著者・明智憲三郎氏
「私は長年、なぜご先祖様は上司にちょっといじめられたくらいでクーデターを起こしたのか疑問を持っていました」
(以下、『週刊プレイボーイ』2020.01.20から)

『麟麟がくる』子孫が明かす真説・明智光秀

通説では、本能寺の変で主君・織田信長を殺した“謀反人”とされている。幼少期から「裏切り者の子孫」といわれてきた光秀の子孫・明智憲三郎氏は、50代半ばでふと、改めて光秀について調べ直そうと一念発起する。そこで浮かび上がってきた、衝撃の事実とは——。

明智光秀が本能寺の変を起こした一般的な理由

  1. 信長を恨んで殺した説
  2. 天下を取りたいという野望に光秀が取りつかれた
  3. 信長によるプレッシャーで光秀がノイローゼになった
  4. 黒幕説、豊臣秀吉や足利義昭将軍

光秀の研究において、近年最も注目を浴びているのが、光秀の末裔である明智憲三郎氏による説である。光秀の子・於寉丸(おづるまる)の子孫とされる憲三郎氏は、独自の歴史研究を経て2009年に『本能寺の変 427年目の真実』を出版。以降も光秀や信長、さらに光秀の末裔にまつわる著作を発表し続け、累計で200万部を売り上けている。

明智光秀『本能寺の変』は、軍記物の創作話⁉︎

20歳のときに読んだ本が大きなきっかけになりました。そこには、「従来の本能寺の変の定説は、江戸時代に書かれた軍記物がもとになっている」と書いてあったのです。
軍記物とは、簡単に言えば面白おかしく創作された作り話で、今でいう小説のようなもの。つまり光秀が信長を恨んで殺した、というような従来の説はただの創作話だとわかったのです。

現在に伝わる光秀の定説は、そのほとんどが江戸時代に書かれた軍記物、さらにもとをたどれば秀吉が家臣に書かせた『惟任(これとう)退治記』という本に端を発します。惟任とは光秀が朝廷から賜った姓のこと。つまり、惟任=光秀を退治した豊臣秀吉の活躍を記した書です。

歴史は勝者がつくるといわれているとおり、秀吉をたたえるために明智光秀を悪者として扱っているのです。このような本に、信憑性があるわけないですよね。

光秀が本能寺の変を起こす前に詠んだという有名な句があります。

時は今 あめが下しる 五月かな

これは「時=土岐氏(明智家も含まれる名家のこと)が天下(天はあめと読める)を取る」という決意を歌ったものだといわれています。
ところが、私の研究によって、この句は秀吉に改竄(かいざん)されたものだと判明しました。

正しくは「時は今 あめが下なる 五月かな」。正しく解釈すれば「土岐氏は今、この降り注ぐ五月雨に叩かれているような苦境にいる(この状況を脱したい)」となります。この句は天下取りへの野望などではなく、一族の苦境を救いたいという願望の表れなのです。
自らの一族、そして土岐氏を救いたいという思いからです。

明智光秀が信長を殺した本当の理由

ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが
「(信長は天下統一後に)明(現、中国)を武力制圧して日本は息子たちに分け与える」
と、いう構想を持っていたことを書き記しています。

そうなると、光秀をはじめとした家臣たちは、現在の領地を取り上げられ、異国の地に送られてしまいます。後年、秀吉の唐入り(朝鮮出兵)が失敗したことからもわかるとおり、異国の地での戦や生活は、一族を滅亡させかねないほどの危険をはらんでいます。

よつやく天下統一が近づき、一族も安寧を手に入れられると思っていた光秀は、自らの死後も一族が無事に過ごすためには、信長を止めなくてはいけないと決意した。信長への怨恨などではなく、一族を救うための謀反だったのです。

終わりに

軍記物が元になっていたり、秀吉が家臣に書かせた『惟任(これとう)退治記』という本に端を発したとすると、著者・明智憲三郎の『本能寺の変 427年目の真実』は傾聴に値すると思います。

この本が広く世間に広まれば、明智光秀の血を引く子孫は、謀反人、裏切り者の子孫という負い目を追わなくて済むでしょう。
また、明智光秀の子孫にはよいことで、大いに力を得たことと思います。

ただし、そうだとしても明智光秀が本能寺の変で信長を殺していなければ、明智光秀の名は歴史に残らなかったかもしれません。信長の家臣では、それほど大きな存在ではなかったと思うからです。