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[第9講]当事者意識と孤独感

主張①誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを本気で信じてはいない

 私の身体はいずれ壊れる——これまで無数の身体が壊れてきたように。そして私は死ぬ。実際、人は誰もがやがて死ぬというのは常識だと思う。私たちはみな、それを承知している。あるいはそう見える。
ところが、その考え、つまり誰もがやがて死ぬことを私たちはみな知っているという考えが否定されることもある。それどころか、どういうわけか何らかのレベルでは、誰も自分がやがて死ぬなどとは本気で信じていないと言う人もこれまでにいた。これはなんとも驚くべき主張ではないか。そう信じるような真っ当な根拠があるのだろうか?

 みなさんは意識ある人生のうち、死んだらなくなるのがわかっている部分をあれこれ削ぎ落とすところから始めるかもしれない。何も聞こえない、何も見えない、何も考えない、などという具合に。それから、考えないとか、感じないとか、聞こえないとか、見えないとかいうのがどのようなことなのか、想像しようとするかもしれない。すると、うまくいかない。だからお手上げになって言う。
「ああ、死んでいるとはどういうことなのかは、どうやらわからないらしい。想像できません。謎です」

根拠①「死んでいる自分」を想像できないから

著者シェリー・ケーガンは、死んでいる自分を容易に想像できると言います。病気、事故などでベッドに横たわり、やがて身体の呼吸などのB機能が停止します。誰でも、このような場面は想像できると思います。

「死んでいる自分」を想像できないから、「死」は信じられないという論理は成り立たないと思います。夢を見ない睡眠、気絶している自分を想像することができなくても、夢を見ない睡眠、気絶はあるからです。

 「自分の身体が死んでいるのを想像することには成功するかもしれませんが、自分、つまり人格を持った人間が死んだところは、けっして本当に想像していません。したがって、信じるには思い描くことが必要であるという前提を踏まえれば、私は自分がいつか死ぬとは、本当には信じていないということになります。死を想像できないからです」
この種の主張には、さまざまな場所で出くわす。一つだけ紹介しよう。ジグムント・フロイトの文章だ。ある箇所でフロイトは、次のように述べている。

『けっきょく、自分自身の死は想像しようがなく、想像しようとするたびに、自分が傍観者として本当は生き延びていることが見て取れる。したがって、精神分析の学派では、あえて断言できるだろう。心の奥底では誰一人自分が死ぬとは信じていない、と。あるいは、同じことなのだが、無意識の中で、私たちの誰もが自分は不滅だと確信している』と。

そもそも、「信じるには思い描くことが必要であるという前提」がおかしいのです。別に、信じるのに必ず想像できることが必要ではありません。

たとえば、あなたが出席していないミーティングを想像してみてください。あなたは、そのミーティングを天井の片隅で見ていると想像できます。だからといって、心で見ているあなたは、そのミーティングが行われないと信じていますか? ミーティングはあると信じていると思います。

根拠②「自分の身体がいつか死ぬ」とは本当に信じていないから

トルストイの中篇小説『イワン・イリイチの死』
この小説では、主人公のイワン・イリイチは転落して身体を痛める。具合は良くならない。しだいに痛みが増し、ついに彼は命を落とす。なんとも意外なのだが、イリイチは自分が死を免れないことを知って衝撃を受ける。そしてもちろん、トルストイが私たちに納得させようとしているのは、私たちのほとんどがじつはイリイチの立場にあるということで、トルストイはこの例を通してそう主張しようとしている。私たちは、いずれ死ぬと口では言うものの、何らかのレベルでは、本気でそう信じてはいない、と。

 誤解のないように強調しておきたいのだが、ここで取り上げている信念(あるいは信念の欠如)は、身体の死にまつわるものだ。イリイチは自分の身体が死を免れないことに気づいて面食らった。私たちの知る限りでは、イリイチは依然として魂の存在を信じているし、自分が天国へ行くと相変わらず信じてもいる。
彼が驚いたのは、自分の身体がいずれ死ぬべき運命にあることだった。自分が死を免れないと悟って驚くという、トルストイが描き出した人間像にはじつに真実味があり、説得力がある。

シェリー先生曰く「だからと言って、イリイチは自分の遺言状を残しただろうと思う。そして生命保険にも入っていたのではないか」

ここには、一種の謎があります。
「自分が死を免れない」と信じていると同時に、信じていないともいう謎が。
そして、人は意識して信じていることと、無意識に信じていることを区別する必要がはたしてあるのか?

とても分かりやすい例を、シェリー先生は上げています。

 何度となく手を洗わずにはいられない強迫性障害の人を例に取ろう。
「手が汚れていますか?」
と訊けば、その人は、
「いいえ、もちろん汚れていません」
と答えるかもしれない。それなのに、そう答えるそばからバスルームに戻って、また手を洗う。この行動を説明するにはおそらく、その人は手は汚れていないと口では言いながら、自分の手が汚れていると何らかのレベルで本当に信じていると言うしかない。

「自分はいずれ死ぬと信じている」
口では言うのにもかかわらず、本当は死ぬとは信じていないと考える理由が得られる?
このような信じているか信じていないか、を考えるのは、もう馬鹿ばかしいとは思いませんか?

根拠②に対するシェリー先生の考え

たとえば、生き返った人が考えを改める臨死体験などの話。

 死の瀬戸際まで行った人は、がらっと行動を変えることがよくあるようだ。一方で、普通私たちは、死の瀬戸際まで行った人のようには振る舞わないという事実からは、自分がいずれ死ぬとは、根本的には信じていないかもしれないと考えるに足る理由がいくぶんかは得られる。ひょっとすると、自分は死を免れないという主張に口先では同意しても、心からそう信じてはいないと考えれば、説明がつくのかもしれない。私たちは「心底」は信じていないのだ。

この主張には、少なくとも、正しい可能性があると思う。私はそれが正しいと納得しているわけでは断じてない。だが、それは、少なくとも、見込みのないようには見えない。真剣に受け止める価値ある主張だ。

私には、正直[第9講]の前半の観念論はどうでもいいので、先に進みたいと思います。しかし、後半「死ぬときは、けっきょく独り」もあまり得るものがありません。ただ一つを除いて。

主張②死ぬときは、けっきょく独り……か?

 誰もが独りで死ぬと主張するとき、人は死について何か深いこと、深遠なこと——そして、真理!——を述べていると思いたがるものだ。
だが、私にはその逆に思えてならない。そこには深遠な真理などまったくないのではないか。それどころか、この主張をする人の大半は、自分の主張が厳密には何を意味するかをしっかり考えたことさえないのではないか。

死を取り巻く「孤独感」

 私たちはみな、本当に独りで死ぬわけではなく、私たちが死ぬときは、あたかも独りでいるかのようだということなのだ。それは独りでいるのに似ている。「私たちはみな独りで死ぬ」という主張は、心理にまつわるもの、すなわち、私たちが死ぬときの心理状態は、孤独に類似しているという主張かもしれない。それは私たちがときどき抱く、独りでいるという感じに類似している。

ひょっとすると、「死ぬときはみな独りだ」という主張は、今一度改訂する必要があるのかもしれない。この主張は、自分が死にかけていると気づいている人は誰もが、寂しさや他者からの距離を感じるということにすぎないのかもしれない。そう気づいている人はみな、「独りで」死ぬのかもしれない。

私たちはみな独りで死ぬというのは本当に正しいのだろうか?

私たちはみな独りで死ぬと、人はよく言うけれど、その主張はただの戯言(たわごと)だと思う。人は自分が何を言おうとしているのか、わずかでも考えることなくそう言っているのではないだろうか。

「私たちはみな独りで死ぬ」という主張は、心理にまつわるもの、という考え方は納得できます。

私がベッドで死んでいくことを想像すると、妻と子供や孫たち、人望があれば知人もいるかもしれません。しかし、死んでいくのは私一人。それ以上でも以下でもない。実際にその時になってみないと、どんな実感を持つのかはわかりません。私の死に、特に崇高な哲学があるわけでもありません。

死とは何か[第9講]当事者意識と孤独感 目次

主張①「誰もがみな、“自分が死ぬ”ことを本気で信じてはいない」

根拠①「死んでいる自分」を想像できないかから
根拠①に対するシェリー先生の考え
「自分が死んでいるところ」は本当に想像できないか
フロイトの考える「死」に対するシェリー先生の反論
根拠②「自分の身体がいつか死ぬ」とは本当は信じていないから
「自分はいずれ死ぬ」という理解と「今から死ぬ」という実感は別物?
根拠②に対するシェリー先生の考え

主張②「死ぬときは、けっきょく独り」

「独りで死ぬ」ならば、それは必然か、偶然か
「けっきょく独り」なのは、死ぬときだけか
死は絶対に「協同作業」になりえないつ?
身代わりとしての死
それは本当に、「死ならでは」のこと?
死を取り巻く「孤独感」