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死とは何か [第14講]死に直面しながら生きる
やっとこの[第14講]で、期待してきた答えがあるのかと思っていたのですが、この本が哲学書であると知っていたら、買うべきではなかったのだと今は思っています。「人生の意義は何か」などの問題は、この本の範囲外のことだと著者シェリー・ケーガンは述べています。
「死」を考える、それも哲学的に「死」を考えるのには、正直嫌気を感じてきています。ですから、この[第14講]は著者の考察を簡単に追ってみます。
そして、死とは何か[第15講]自殺で、最後です。
死に対する3つの立場
『死とは何か』の著者シェリー・ケーガンによると、人間には魂はなくただの物体で、死を迎えると、すべて消滅してしまいます。だから、死んだ人間にとっては、何も感じるべきことはなく(感じる実体がないのだから)、死とは良いことでも悪いことでもありません。
私たちはその事実に対して、次の3つの立場のどれかをとります。
- 否定する←いや魂がある、しかも肉体はいずれ復活する(キリスト教)
- 対応する←死を考慮に入れて、いかに生きるべきか?
- 無視する←死は考えない(「考えるべき」だという倫理観は別に)
「死」に対する恐れ、怒り、悲しみ
死を考慮に入れていかに生きるかの立場から、著者シェリー・ケーガンは哲学的に次の考察をします。
- 死にたいする恐れは適切な応答かどうか?
- 理にかなった感情かどうか?
ところで、適切な恐れとは何でしょうか?
恐れているものが何か「悪い」もので、身に降りかかってくる可能性があり、いつそれが起こるかわからないなら、恐れて当然です。だから「死」は適切な恐れになります。
では、死を恐れる時、厳密には何を恐れているのでしょうか?
死にまつわるもの—痛み・突然死・若死(もっと生きられれば良いものを得られるのにという前に出てきた剥奪説)・死そのもの(何と言っても「死」と同じ体験は他に何一つ似たものはありません、「臨死体験」といえど)—です。
突然死・若死(剥奪説)の恐れは、「怒り」にも通じます。怒りは、対象を必要とします。例えば、「神」に「なんで、80年という寿命なのか!」とか。しかし、この怒りは「理」にかなっていないのはわかりますよね。
では、早死などに対する「悲しみ」はどうでしょうか?
これも「理」にはかなっていません。むしろ、恐れ、怒り、悲しみは、感謝にもなります。
著者シェリー・ケーガンは、カート・ヴォガネットの『猫のゆりかご』から引用します。
神は泥を作った。神は寂しくなった。
だから神は泥の一部に、「起き上がれ!」と命じた。
「私の作ったもののいっさいを見よ!」と神は言った。
「山、海、空、星を」そして私は、起き上がってあたりを見回した泥の一部だった。
幸運な私、幸運な泥。
泥の私は起き上がり、神がいかに素晴らしい働きをしたかを目にした。
いいぞ、神様!
神様、あなた以外の誰にもこんなことはできなかっただろう!
私にはどう見ても無理だった。
あなたと比べれば、私など本当につまらないものだという気がする。
ほんの少しばかりでも自分が重要だと感じるには、どれほど多くの泥が起き上がって周りを見回しさえしなかったかということを考えるしかない。私はこんなに多くを得たのであり、ほとんどの泥はろくに何も得なかった。
この栄誉をありがとう!
いずれ死ぬ私たち——人生で何をするべきか
これまでは、死に対する感情的反応について考えてきた。だが、行動はどうだろう?いずれ死ぬという事実に照らして、私たちはどう生きるべきなのか?すぐに思い浮かぶ答えは、まるでジョークのようだ。じつは、用心するべきだと言いたい。
昔、「ヒルストリート・ブルース」というテレビの警察ドラマがあった。毎回、巡査部長が、最近起こったさまざまな犯罪と、進行中のさまざまな捜査をひととおり挙げるところから始まり、その後決まって、
「用心しろよ」
と言いなから警官たちを送り出す。ときどき世間で言うように、人生は一度きりで、やり直しは利かない。だから私たちは、死を免れないという事実、限られた寿命しかないという事実を踏まえて、人生を台無しにしうることにも気つかなくてはいけない。私たちは、やりそこないうるのだ。
だから、そんな人生—やることがあまりに多く、適切にやるのがあまりに難しい—で、あなたは何をするべきか、人生の意義は何かと自分に問わなければいけない。時間は十分あるとも、ないともいえない、人それぞれによって違う。
しかし、「人生の意義は何か」は、最も重要な疑問かもしれませんが、「死」とは何かのこの本ではなく、別の本にふさわしい問題だと著者シェリー・ケーガンは言っています。
だから、この本が哲学書であると知っていたら、買うべきではなかったのだと今ははっきり思っています。
死を免れない私たちに採れる、最高の人生戦略
「食べ、飲み、愉快にやれ。明日には死ぬかのしれないのだから」
これだと、些細な快楽しか得られないかもしれません。だから、普通はこれに有意義な実績も加えたいことでしょう。人生の有意義な実績は、量と質のバランスで本人がどう考えるかで決まります。[第14講]死に直面しながら生きる、最後に、
人生の価値をできる限り高めるための戦略とは?
死に向かい合うためのアプローチを、最後にもう一つだけ手短に紹介させてほしい。「人生は良いものである、あるいは良いものとなりうるので、自分の人生をできる限り価値のあるものにしようとするのは理にかなっている」という信念だ。
死とは何か[第14講]死に直面しながら生きる 目次
死に対する3つの立場
生と死について考えずに生きるのは、けしからんっ/絶対に無視できない「隠された重要な真実」とは?/事実については、「いつでも考えるべき」か/死を思うべきとき、思うべからざるとき
死と、それに対する「恐れ」の考察
「感情が理にかなう」とは?/どんなとき、人は恐れを抱くべき?/条件①恐れているものが、何か「悪い」ものである/条件②身に降りかかってくる可能性がそれなりにある/条件③不確定要素がある/「恐れ」の感情と「死」の接点/死に伴う痛みが恐ろしい/死そのものが恐ろしい/予想外に早く死ぬかもしれないのが恐ろしい/「若くして死ぬ」ことを恐れるのは、それ自体が不適切⁉︎/抱くべきは「恐れ」とは違う感情だった?/「早死にする運命に怒る」という立場/「早死にする運命を悲しむ」という立場
いずれ死ぬ私たち——人生で何をするべきか
死ぬか死なないか以前に、人生を台無しにしないこと/人生の「やり直しが利かない過ち」とは?/人生は、何もしないには長過ぎるが、何かをするには短過ぎる/そんな人生で、あなたは何をするべきか
死を免れない私たちに採れる、最高の人生戦略
ハイスコアの落とし穴/「人生の質」の測り方/質×長さで、「人生の良さ」は比較できるか/「幸福の総量」と「人生の満足度」が逆転するとき/業績や作品は永久に不滅か/人生の価値をできる限り高めるための戦略とは?/死と仏教、キリスト教