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香取神宮

伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮「神宮」の重み

フツヌシノオオカミ

人生の指針を見失い、
いくべき方向を選ぶことが困難になった現代。
多くの人が戸惑い、悩みを抱えながら生きているはず。
自らの心の内面と向き合うことで、
揺るぎない道を見据えよう。

香取神宮は、鹿島神宮とは、さながら「兄弟宮」ともいえる縁で結ばれた神社です。「出雲の国譲り」の神話において、鹿島神宮のご祭神、タケミカヅチの神とともに遣わされたのが、香取神宮のご祭神であるフツヌシの神だといわれているからです。

両宮は、現代に至るまで交流があり、近しい関係を保っています。平安時代の記録によると、当時、社名に神宮の文字が使われていたお社は、伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮だけでした。このうち伊勢神宮は、日本の神社の最高峰に位置し、ただ「神宮」とのみ呼ばれるほどの至高の存在ですから、その伊勢神宮に並び称される鹿島神宮、香取神宮もまた、特別な神社だといえるのではないでしょうか。

鹿島神宮は凹形、香取神宮は凸形の要石

香取神宮・要石へ

香取神宮の最強スポットといわれる「要石」へ
楼門を前にして左に曲がります。この通りは旧参道になります。楼門からは5分ほどです。この階段の上に「要石」があります。

香取神宮は凸形の要石

要石にしても、両神宮は、いわば対の関係にあります。鹿島神宮に、凹形の要石があるように、香取神宮には凸形の要石が存在し、やはり強い霊力を宿しているのです。こうした対比は、決して偶然という言葉でかたづけられるものではありません。神秘的な絆の深さに感動すると同時に、まさに「天の配剤」という言葉が浮かんできます。

そのエナジーも似通っています。鹿島神宮が「要となる決意を支える聖地」であるように、香取神宮も「意を決すべき場所」であり、やはり数多くの武将が必勝祈願を行ってきました。現在でも、武道を志す人にとって、このお宮は特別な意味を持つ聖地だといっていいでしょう。

香取神宮・源頼義と三本杉

香取神宮・源頼義と三本杉(拝殿の左横)
天下太平 社頭繁栄 子孫長久の三つ願 成就せば此の杉自ら三岐に別れん
と、源頼義公が祈願。立て札によると、そして一株の杉が三岐に別れたことから「三本杉」といわれたとあります。

香取神宮は、道を見据えるための地

スピリチュアルな目で見ると、香取神宮にはさらに興味深い価値があります。鹿島神宮よりも、いっそう静けさに包まれた森林を擁し、張り詰めた緊張感の漂うこちらの神宮は、自らの心と向き合う、内省の時間を過ごすのに適したサンクチュアリです。それだけに、意を決する前の惑いのなかにある人が、いくべき道を見据えるためには、またとない場所だと思うのです。

香取神宮・奥宮香取神宮・奥宮

江原啓之スピリチュアル「道」という言葉

日本では、よく「道」という言葉を使います。単純に進むべき道筋だともいえますが、ここでいう道とは、マナーであり作法でもあります。それも、形式的な方法を指すのではなく、一言では表現できない深い精神性こそが、道という言葉に込められた本質ではないでしょうか。

古来、日本人はあらゆる場面で道を生み出してきました。香取神宮のご神徳のひとつである武道も、ひとつの道です。ときとして勝敗よりも精神的な美しさが優先されるからこそ、武道は、ただの格闘技とは一線を画しているのです。

大相撲の横綱のガッツポーズは、否か!

以前、大相撲の横綱が、勝利の瞬間にガッツポーズを作ったからといって、一部の人に批判されたことがありました。外国人から見れば、実に不可解な批判でしょうし、日本人のなかにも、「何が悪いのかわからない」という声がありました。勝負に勝った喜びを素直に表現したのだから、むしろ好感が持てるのではないか、というわけです。

大相撲がスポーツなら、ガッツポーズは問題にならなかったでしょう。しかし、神道に端を発する大相撲は、もともと神事として始まったものでした。大相撲の一連の所作と勝負は、「力」というエナジーを敬い、神に奉納するための儀式だったのです。そこには個人的な勝敗など、大きな意味はなかったはずです。
ガッツポーズは、自らの勝利を喜ぶとともに、「おれの力を見ろ」とアピールするための仕草です。大相撲を神事として考えれば、神々に対して自分の力を誇示することが、どれほど不敬であり、文字通り「神をも畏れぬ」行為であるか、理解できるのではないでしょうか。言葉として一般化していないだけで、神事である大相撲には、やはり相撲道と呼ぶべき作法の数々が存在しているのだと思います。

香取神宮・楼門香取神宮・楼門

江原啓之スピリチュアル、日常生活のなかの様々な道

千利休が茶道を完成させて以来、茶道は武家のたしなみとして武士階級に広まりました。茶室では、どれほど身分の高い武士であっても、帯刀は許されませんでしたが、これは浮世の身分やしがらみを、刀とともに捨て去ることを意味します。茶道が単なるテーブルマナーのようなものだったとしたら、そうした発想は生まれてこなかったのではないでしょうか。

あなたが主婦だとすれば、主婦道があるでしょう。ビジネスマンならビジネス道、学生なら学生道があります。気持ちのあり様さえ変えていけば、あらゆる仕事、あらゆる行為のなかに、道を見出せるはずなのです。

今の日本人は、道を見失いつつあります。ルールを守ろうとせず、平気で無作法な行いをし、恥ずかしいという気持ちを忘れている……。道を尊び、日常の小さな事柄にまで道を作り上げてきた先人と比べると、その精神の劣化は明らかです。

香取神宮・拝殿香取神宮・拝殿

江原啓之スピリチュアル「小我」と「大我」の話

ここでもうひとつ、道とは何かを知るために、「小我」と「大我」の話をしましょう。私は、講演や書籍のなかで、よく小我と大我という言葉を使います。小我とは、自分自身の利害や目先の成否にこだわる狭い意識。大我とは、周りの人や世の中の人、ひいては世界そのものの役に立つように生きようという、広い意識をいいます。すべての物事には、小我と大我の二つの側面があり、そのいずれの立場を選ぶかによって、たましいの格が決まってくるといってもいいでしょう。

小我にとらわれて生きている限り、道は見出せません。勝敗や利害だけに目を向けるようになり、大切なものを失ってしまうでしょう。逆に、大我による生き方を学べば、自ずと身の処し方がわかり、そこに美しさが生まれてきます。私が、人が尊ぶべき概念として掲げている「真・善・美」の心も、大我のなかに育つものであり、道にも通じていくのです。

何かに迷い、心に余裕を失っている人こそ、香取神宮という聖地に向かうべきだと思います。そして、本殿だけではなく、神々しいパワーを持った奥宮や、深閑とした森にまで参らせていただきましょう。できればゆっくりと時間をかけて、ご神域のエナジーを吸収してほしいと思います。

人は、どんな道にも進むことができます。自分の心の内面と、ゆっくり向き合うことによって、どの選択肢を選び、どうやって進んでいけばいいか、あなたのいくべき道を見据えてください。
香取神宮は、まさに道を見据えるための地であり、真摯に祈願すれば、今もおわしますご神霊が、あなたの道に貴重な啓示を与えてくださることでしょう。

(江原啓之「今いくべき聖地」香取神宮より)

香取神宮・ご神木

香取神宮・社務所前のご神木
樹齢1000余年。目通り(目の高さに相当する部分の木の幹の太さ)約7.4m。

このめぐり いくさかありと四人して いだけど足らず 神のふる杉
(落合直文)

香取神宮の御朱印。希少な香取神宮・奥宮の御朱印

香取神宮の御朱印。希少な香取神宮・奥宮の御朱印
香取神宮・奥宮

香取神宮(かとりじんぐう)
古くから国家鎮護の神として名高く、中世以降は下総国の一宮に。
●千葉県香取市香取1697
電話0478・57・3211
JR成田線佐原駅から車で7分
高速バスでは関鉄グリーンバス香取神宮前で下車、徒歩5分
https://katori-jingu.or.jp