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飼い猫の死

死とは何か[第10講]死はなぜ悪いのか(要約)

 存在しないのがどうして私にとって悪いことでありうるのか? なにしろ、存在しないというのは、文字どおり、存在しないことにほかならないのだから! 誰かが存在しないときに、その人にとって悪いことなど、どうしてありうるだろう?

「死が悪い」という定義がそもそもおかしいように感じます(感じますとは、哲学的な思考ではありませんが)。一般的には、「死は悲しい」のではないでしょうか?

では、誰が悲しいのでしょう?
死が悲しいのは、後に残された人がつらい思いをするからです。死んだ人自身は悲しくはないのです。何も感じないのですから(感じることするありません)。
また、生きている時に「死」を恐れ、家族や知人のことを思うと悲しみを感じます。

そして、魂を信じている人(二元論者)にとっては、自分の死を悲しんでいる家族、知人などを見ているから、本人も悲しくなるのでしょう。

[第10講]死はなぜ悪いのか?
[第9講]まで読んでくると、身体説の立場にあるシェリー先生の結論は、はっきりしています。だから、結論から上げておきます。その前に、明快なエピクロスの考え方も。もう、[第10講]死はなぜ悪いのか? と問うことは意味がないのです。

エピクロスの「死は取るに足りないものだ」

あらゆる災難のうちでも最も恐ろしい死は、私たちにとっては取るに足りないものなのだ。なぜなら、私たちが存在している限り、死は私たちとともにはないからだ。だが、死が訪れたときには、今度は私たちが存在しなくなる。ならば、死は生者にも死者にも重要ではない。前者にとっては存在しないし、後者はもはや存在しないのだから。

「死が悪い」ということについての、シェリー先生の結論

 なぜ死が悪いことでありうるかについては、難問——まだ完全には答えが得られていない疑問——がいくつか残っていると思う。
だがそれでもなお、私には剥奪説こそが、進むべき正しい道に思える。この説は、死にまつわる最悪の点を実際にはっきり捉えているように見える。
死のどこが悪いのかといえば、それは、死んだら人生における良いことを享受できなくなる点で、それが最も肝心だ。死が私たちにとって悪いのは、私たちが死んでさえいなければ人生がもたらしてくれただろうものを享受できないからにほかならない。

[第10講]死はなぜ(本人にとって)悪いのか? 哲学的に考えると、「剥奪説」がある程度の結論になります。
しかし、この「剥奪説」は、仮定の上での考え方です。「もし、私たちが死んでさえいなければ(生きていれば)」のことであり、あまり意味がないと思います。

「死」以外の出来事ならば、「もし〜ならば」と考えると、「〜しなければよかった」「あの時、違う道を選んでおけばよかった」など、生きていく上で参考になります。学習できます。それによって、生きていく上で参考になります。

しかし、死んでしまっては、もはや学習は生かさず、役に立つことはありません。それでも、「剥奪説」はシェリー先生も「剥奪説こそが、進むべき正しい道に思える」と書いていますので、その「剥奪説」を抜粋しておきます。

【剥奪説】非存在は「機会を奪うから悪い」

あることが悪いと判断される際の3つのパターン

  1. 絶対的に悪いこと
    本質的な意味で、何かが悪いということです。頭痛、怪我、病気などで、それが本質的に悪いと言えます。だから、できれば私たちは避けたいと思います。
  2. 間接的に悪いこと
    それ自体は悪くなくても、それが原因で引き起こすことや、招く結果のせいで悪い場合があります。たとえば、職を失うのは、本質的には悪いとはいえません。それ自体は良くも悪くもないのです。しかし、失職は貧困や借金につながり、それが痛みや苦しみなど、本質的に悪いものにつながります。
  3. 相対的に悪いこと
    自分が何かを得ているせいで、手に入れそこなっているものがあります。経済学者は、「機会費用」と呼んでいます。本質的に悪いわけではないし、間接的に悪いわけでもありません。だが、人はそれをしている間に、もっと良いものを手に入れそこなっている場合もあるから悪いのです。

 この説明は、今日では死の害悪あるいは悪さを説明する「剥奪」説として知られている。死に関して最悪なのは、生きていれば享受できていたかもしれない、人生における良いことを死が剥奪する点であると主張する説だからだ。そして、剥奪説は基本的に正しいように思える。ただし、死が悪いのには、剥奪説が重視する面に加えて、原因となる面が他にもあると思う。
私は、死んだら人生における良いことが享受できなくなる。私はそれらを剥奪される。それこそ、死が悪い主な理由だ。

だからと言って、仮定の話ではどうでも良くはありませんか?
また、もっとどうでも良いことですが、この剥奪説にちょっと変わった、あまりに哲学的、つまり形而上学的な考え方が出てきます。
ルクレーティウスの主張です。死後だけが、私たちが存在しない唯一の時期ではない。生まれる前があるという説です。
「シュモス」と呼んでいます。そんなこと、誕生前の良し悪しを考えて、どうなの? と言いたくはありませんか!

誕生前の「シュモス」とは?

 誕生前の期間は、私は人生を過ごしていないが、やがて人生を手に入れる。だから、将来手に入るものを私はまだ持っていない。あいにく私たちには、誕生前のような状態(後で手に入れるものをまだ持っていない状態)を表す言葉がない。ある意味では喪失に似ているが、喪失とまったく同じわけではない。それを「シュモス」と呼ぶことにしょう。誕生前の期間には、人生の喪失はないが、人生のシュモスはある。

一方、それは死後の期間には当てはまらない。死後、私は人生を失ってしまっている。この死後の期間には、人生の喪失があるが、人生のシュモスはない。
そこで今度は、私たちは哲学者として、こう問う必要がある。私たちはなぜ、人生のシュモスよりも人生の喪失をもっと気にかけるのか? かつて持っていたものを持たなくなるのは、やがて手に入るものをまだ持っていないのよりもなぜ悪いのか?

この先にも様々な形而上学的(頭で考えるだけの)話が出てくるのですが、SFと同じような話で、一応読みましたが読んでも何の意味もありません。

「死はなぜ悪いのか」目次

死にまつわる形而上学的な考察のおさらい
死はどうして、どんなふうに悪いのか
死は何より、「残された人にとって、悪い」もの?/「死ぬプロセス」や「悲しい思い」こそが「悪い」?/「自分」という存在がなくなることが「悪い」こと?/非存在は「機会を奪うかり悪い」(剥奪説の考え方)

死はいつの時点で、私にとって悪いのか
エピクロスの「死は取るに足りないものだ」が意味するもの/「時点を定められない事実」は存在するか/死が「悪いこと」になるタイミング/非存在と悪は同居できるか/「非存在=悪」を受け容れることで生じる不都合/「生まれそこなった気の毒なラリー」は全世界に何人いるのか/「人類史上類を見ない、最も多くの命が奪われる惨事」は戦争ではない⁉︎/死と存在の問題がもたらす哲学的泥沼かり抜け出すための別解釈/「死」はどんなときでも、タイミングが悪過ぎる

死後に関するルクレーティウスの主張とその反論
「生まれる前」と「死んだ後」の時間は、同じ価値を持つか/「私」は過去には存在しえない/「もっと前に生まれていれば」にこめられた意味/「未来志向」が時間の重みを変える/「死が悪い」ということについての、シェリー先生の結論