「国家安康」「君臣豊楽」が刻まれた鐘
徳川家康が豊臣家を滅ぼすきっかけを作った方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)の真相を調べてみました(11月26日『どうする家康』で放映されます)。
前知識になる「諱(いみな)」を簡単に説明します。
現代にほとんどない「諱(いみな)」は、主に敬意を表して、ある人の名前や呼び名を避けることを指します。
これは、敬意や礼儀の一環として行われる慣習であり、特に故人や高位の人物に対して使用されます。諱を避けることは、その人物に対する尊敬や畏敬の念を示すものとされています。
要は簡単に目上の人の名前(この場合は「家康」)を避けなければおいけなかったのです。
方広寺鐘銘事件の真相は?
方広寺大仏殿再興に際して発生し、大坂冬の陣の原因となったできごとがありました。
秀吉の息子である豊臣秀頼は、慶長7年(1602)に亡父秀吉の追善供養のために方広寺大仏殿(東山大仏堂)の再建を始めました。
しかし、年末の失火で計画は頓挫し、後に片桐且元を奉行に任命して7年後に再開。慶長15年(1610)6月12日には地鎮祭を行い、8月22日には立柱式を迎えました。
工事は膨大な費用がかかりましたが、最終的に慶長19年(1614)4月16日には高さ一丈七寸(3.24メートル)、口径九尺五寸(2.88メートル)、銅使用量一万七千貫(63.75トン)の巨大な梵鐘が鋳造され、竣工を迎えました。
その後、5月21日には大仏開眼供養と堂供養が8月3日に行われることが決まり、徳川家康の了承も得られました。
しかし、7月18日になると家康から開眼供養と堂供養の分離案が提示され、同26日には鐘銘と棟札の文章に疑義があるとして供養の延期が命じられました。
特に、鐘銘の中の「国家安康」「君臣豊楽」の二句が問題視され、安の一字で家康を分断し、豊臣を君として楽しむ意図が含まれているとして批判されました。
この問題について、銘文を草した禅僧文英清韓と且元が8月13日に駿府に赴いても、全く耳を傾けられませんでした。
さらに、大坂城への浪人雇用を非難し、9月に入ると豊臣氏に対し、国替えまたは淀殿か秀頼の江戸下向のいずれかに応じるよう圧力がかかり、結局は大坂冬の陣が勃発することとなりました。
この事件の原因となった大きな梵鐘は、明治17年(1884年)に建立された方広寺鐘楼に納められ、現在もその姿を見ることができます。
方広寺鐘銘事件は言いがかりか?
最近では、徳川の言いがかりや陰謀ではなく、純粋に豊臣側の落ち度だったのではないかという見方もあるようです。
徳川家康は、梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」という文字に対して、家康の名前を引き裂き、豊臣の名前はつながっているという徳川を呪う文字だと激怒しました
これが、徳川家康が豊臣家を滅ぼすために計画していたという説もあります。
しかし、最近では、徳川の陰謀ではなく、純粋に豊臣側の落ち度だったのではないかという見方もあるようです。このような諸説があるため、真相については明確にはわかっていないと言えます。
「国家安康」と「君臣豊楽」の銘の意味
右僕射源朝臣
子孫殷昌
君臣豊楽
国家安康
- 右僕射源朝臣(平安時代の貴族の官職名、右大臣の補佐役)
- 子孫殷昌(しそんいんしょう)
豊臣を君として、子孫の殷昌を楽しむ - 君臣豊楽(くんしんほうらく)
豊臣を君として、君臣が楽しい関係を築く - 国家安康(こっかあんこう)
国家の安泰と万民の幸福を祈る
京都・方広寺について
方広寺は、京都市東山区にある天台宗の寺院です。ご本尊は、盧舎那仏で、通称は「大仏」、「大仏殿」、「大仏殿方広寺」です。
方広寺は、豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺として文禄4年(1595)に創建されました。
方広寺は、方広寺鐘銘事件の引き金となった「国家安康」の梵鐘を有することで知られています。
まとめ
方広寺鐘銘事件の真相を追究し、国家安康と君臣豊楽の鐘銘に焦点を当てました。
徳川家康が豊臣家を滅ぼす契機となったこの事件の真相に迫り、「諱(いみな)」の説明もしました。
方広寺鐘銘事件の真相については、言いがかりの可能性も検討。そして、「国家安康」と「君臣豊楽」の銘の意味に迫り、京都・方広寺に関する背景も紹介。
記事全体を通して、方広寺鐘銘事件の歴史的な謎に迫り、その重要性を明らかにしました。