Contents
本当のスピリチュアリズムとは何か?
「スピリチュアリズム」とは、
あくまでも「霊的世界」を軸として考える「哲学」です。
現世は魂の修行場、死はひとつの修行の終了
霊的世界の視点に立って見ると、現世は魂の修行場で学校やスポーツジムのようなものです。死はひとつの修行の終了であり、霊界では「おかえりなさい」と喜んでで迎えてくれるものなのです。
人はふつう、病気や災難がない人生を望みますが、現世は魂の修行の場ですから、スピリチュアリズムの視点からみると、何もない人生は少し矛盾していることになります。本当に神様の力が働いたら、苦難の道につき落とされるはずなのです。
本来、スピリチュアリズムは、「経験と感動」によって理解されるべきものです。苦難を乗り越えることが、自分自身の成長につながる大切なプロセスです。「楽しみ」や「喜び」を味わっていなければ、人を喜ばすことも、楽しませることもできません。
ただし「苦難こそが喜びである」などは、間違ったスピリチュアルな言説。真意を知らないで字面だけで受けとめると、まるで奴隷や囚人のようなまっ暗闇の人生を生きることをすすめているかのように感じます。
死ねば誰でも「そうだったのか」とわかる
実は、スピリチュアリズムとは、死ねば誰でも「そうだったのか」とわかるほどシンプルな思想なのです。ですからあちら側(霊界)でも、現代人のそういった誤解を、おおごとだとはとらえていません。
波欄万丈な人生を生きている人ほど、目に見えない力を信じる傾向が強いようです。
逆に、何も奇跡的な体験のない人には、スピリチュアリズムを理解しにくいところがあります。霊的世界を、目に見える形で理解させることは難しいからです。
それを100%理解できたなら、現世での営みに感動がなくなってしまいますから、あえてそうしないという、天が仕組んだ意図なのかもしれません。
なぜ疑いながらも、初詣、墓参り、子どものお宮参りを?
霊的世界を否定する人もいます。見えないものは信じないというなら、それを貫けばいいでしょう。何を信じ、どう行動するかはその人の自由ですから。しかし、多くの人はそれを否定しながら、あるいは疑いながら、初詣、墓参り、子どものお宮参りなどしています。行動に矛盾があるのは、「真実」を知ることへの恐れがあるからです。
霊的世界を認めてしまえば、自分が謙虚に生きているわけではないことも、自分の都合ばかりを主張しているだけであることも、認めざるを得なくなります。自分自身の魂の歪みや、執着の深さに直面するからでしょう。自分を客観視するのが怖い、生き方の軌道修正を余儀なくされて怖い、今までの常識を覆されるのが怖いのです。
これまでスピリチュアルな世界の存在を信じようとはしなかった人々も、変わらざるを得ないような状況になりつつあります。
今の時代は「心がモノに呑まれてしまっている」時代
私たちは物質主義に歯止めをかけなければいけません。「生きること」や「成長する」ということは、「無知」を「知」に変えてゆくことなのです。それがわかった時点で、少しずつでも変えていく必要があるのです。
霊的世界を含めて広い視野でとらえる人生と、現世だけを見つめて生きる人生。そこに大きな違いがあるということをはっきりと認識していただきたいと思います。
物質主義的価値観で何らかの目標に到達できたとしても、それがすなわち本当の幸せの達成ではありません。この真理が理解できるかどうかが岐路であり、魂の幸せを得る処方箋だろうと私は思います。
『江原啓之 スピリチュアリズムを語る』より