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[第6講]「人格の同一性」と『テセウスの船』

この[第6講]は、『テセウスの船(Ship of Theseus)』を思い出させます。
『テセウスの船』とは、パラドックスの1つ。テセウスのパラドックスとも呼ばれます。

テセウスはミノタウロスへの人身御供の一員として、志願して他の若者たちとクレタ島に船で行きました。そして、ラビリンス内のミノタウロスを退治し、アリアドネーの糸に助けられ、無事ギリシャに帰国します。

ギリシャ神話のアルゴー船(ギリシャ神話のアルゴー船)

テセウスが帰還した船には30本の櫂があり、アテネの人々はこの『テセウスの船』の朽ちた木材を徐々に新たな木材に置き換えて保存したのです。これが、論理的な問題から哲学者らにとって恰好の議論の的となったのです。
つまり、『テセウスの船』の全ての木材が置き換えられた時、同じ『テセウスの船』であると言えるのかどうか。

『テセウスの船』を、『私』に置き換えると、この[第6講]の考察と同じようになります。何が『テセウスの船』つまり『私』をたらしめているのか?

余談ですが、もし同じ木材で同じような船を造っても、その船は『テセウスの船』とは呼ばれません。同じように、全く同じ細胞で体を造っても、その体は『私』ではありません。では、『テセウスの船』や『私』の同一性には、何が必要なのでしょうか?

死とは何か[第6講]「人格の同一性」について

最初に、はっきり書いておきます。「死んだらどうなるのか」「死をどうのように迎えればいいか」と考えている人は、[第6講]「人格の同一性」については読まなくてもいいと思います。特にの前半p229−260は、読まなくていいと思います。

哲学者が言う「人格の同一性」問題、4つの説

今日の「私」と明日の「私」は、同じ人であるのか?
何をもって同じ「私」と判断し、認識するのか?

「死んだらどうなるのか」「死をどうのように迎えればいいか」
と、悩んだり恐れたりしている人にとっては、普通はこんなことは考えません。
しかし、[第6講]は形而上学ですので、こんな疑問も考えるのです。

[第6講]では「人格の同一性」4つの説が概観されます。

  1. 魂説(→心説)
  2. 身体説
  3. 脳説(身体のどの部分が重要か)
  4. 人格説(魂を人格と、あるいは脳のF機能を1つにくくる人格と言い換える仮定の問題?)
    だから、二元論者でも容認できる?

「人格の同一性」のカギは何か?

二元論を信じている人は、魂が同じであれば同じ人とするでしょう。
これを「人格の同一性の魂説」とします。「人格の同一性の説」と言ってもいいかもしれません。
しかし、二元論「魂説」は無くなりました。著者シェリー・ケーガンは[第6講]冒頭でこう書いています。

死について考え続けなければならないが、死に関してはもう、物理主義の視点から考えてほしい。私たちは、以下の前提を踏まえて死について考えることにする。
すなわち、存在するのは身体だけであり、心について語るのは、特定の特別な精神的活動を身体が行なう能カについて語る方便にすぎないという前提だ。身体以外に何か別のものはない。非物質的な魂は存在しない。

たとえ、細胞が日々新しくなっても、同じ身体を持っていることが、同じ人だ判断されます。これを「人格の同一性の身体説」と言っています。

さらに、身体のどの部分があれば、同じ人と言えるでしょうか?
著者シェリー・ケーガンは、『スターウォース』のルーク・スカイウォーカーを取り上げます。ルークは、ダース・ベイダーに右腕を切断されてしまいます。

だからと言って、ルークはルークです。このように考えると、手や足が全部なくなっても、身体のどの部分が残っていれば、ルークと判断されるでしょうか?

ズバリ、ルークをルークたらしめているのは、ルークの「脳」です。

「人格の同一性の魂説」を信じていたら、「魂を追え!」と言える。それとちょうど同じで、「人格の同一性」に関する身体説の脳バージョンを信じていたら、「脳を追え!」と言うことができる。同じ脳なら同じ人、違う脳なら違う人というわけだ。

例えば、
スミスさんとジョーンズさんを巻き込む事故があった。ジョーンズさんは胴体を損なわれたが、脳は無事だった。スミスさんは、脳は損なわれたが、胴体は無事だった。そこでジョーンズさんの脳を取り出してスミスさんの胴体につなげる。いわば、配線をすべて接続すると、誰かが目覚める。
それは誰なのか?さあ、脳を追え!それはスミスさんの胴体だが、ジョーンズさんの脳だ。だから、目覚めるのはジョーンズさんだ。

だから物理主義者は、次のように言えます。

「『人格の同一性』の力ギは身体です。同じ人間であるというのは、同じ身体を持っているということです」
それならば、身体説の最善のバージョンは脳説であるとつけ加えておきたい。それは間違いなく物理主義者が受け容れられる立場だ。
そして、ついでに言えば、二元論者が受け容れられる立場でもある。なにしろ、たとえ魂があるとしても、魂が「人格の同一性」のカギであると言うことを余儀なくされるわけではないのだから。
魂が存在していたとしても、身体が同じであること(とくに、脳が同じであること)が、「人格の同一性」の力ギかもしれない。

「人格の同一性の身体説」の先の「人格の同一性の脳説」です。そして……

 身体説についてもう少し考えてほしい。身体説の最善のバージョンは脳説だと私は述べた。
だが、なぜそれは妥当に思えたのか? ルーク・スカイウォーカーが片腕を失ったとき、なぜ私たちは彼が死んだと言わなかったのか? 脳こそが人格を宿す身体の部分だからなのは、明らかだろう。
実際、脳全体が必要なわけではなく、十分なだけあれば良いのかもしれないとさえ、私は述べた。
とはいえ、どれだけあれば十分なのか? 人格を保つことができれば十分だ。

この新しい見方では、「人格の同一性」の秘密は身体が同じことではなく、人格が同じことだ。この見方を「人格の同一性の人格説」、略して「人格説」と呼ぶことにしよう。

「人格の同一性の人格説」。ちょっと考察のための形而上学的な考察です。読んでもSFの世界で、あまり意味がないと思いました。[第7講]でも、SFの世界の話が続いたのには、さすがに閉口しました……。

死とは何か[第6講]「人格の同一性」について 目次

「魂が存在しないこと」は立証できるか?
非存在の証明/「いる証拠」がなくなれば、「いない」ことになる?/非存在に関する科学的根拠の不必要性/「魂の非存在」の証明もまた、不必要⁉︎/「死の講義」の前提となる魂の扱い方/それでも「二元論」と「魂の存在」を信じる人へ

人格の同一性——「私」が「私」であり続けるための条件を探る
「私が存在し続ける」とはどういうことか?/人格の同一性を論じる際の注意点——「同一」の範囲を狭め過ぎない/全体と一部、そして同一性/空間的運続性と同一性/時間経過と同一性/時間の断絶と同一性/「時空ワーム」で捉え直す/「列車」と「自動車」は同様に扱えるのか?/「空間的な連続性」と「時間的な連続性」は同様に扱えるのか?/「同一」と認めうるための条件/変化の前後は「同じもの」なのか?/いよいよ「人格の同一性」について考える/「人格の同一性」を認めるためのカギ/「私という存在」が、この週末を生き延びると認められるための条件/「自分の死」を生き延びることはできるのか?

魂説——私が私であることを決めるのは「魂」であると仮定する
魂は身体の死を生き延びられる?/魂の入れ替わりには、本人も気づけない⁉︎——口ックの懸念

身体説——私が私であることを決めるのは「身体」であると仮定する
「身体そのもの」を追いかける/身体は「私の死後」も生き延びられるのか?/死後の身体の復活——ばらばらに分解したパーツを元どおりにしただけ?/死後の身体の復活ーじつはただの「複製」であって、別物にすぎない?/オリジナルの復活か、複製か……その検証/「身体説」における「死後の生」/身体の「変化」と同一性/変化の程度と同一性/二つの身体を同一と認めるための条件と、「最善の身体説」/「脳」の特別性/「脳こそが人格である」と言うために、どれだけの脳が必要か?

人格説——私が私であることを決めるのは「人格」であると仮定する
信念、欲望、記憶、目標……中身さえ同じなら魂や身体、さらには脳が変わっても「同じ人」⁉︎/「人格の変化」の扱い方/部分と全体の関係性