※本ページにはプロモーションが含まれています。

[第12講]人生の価値の測り方

死とは何か[第12講]死が教える「人生の価値」の測り方

 これまで私は、次のように主張してきた。
死は悪いものとなることがあり、それは、生きていれば良いことを経験できるときに死んでしまえば、その良いことを経験できなくなるからだ。だが、全体として人生がもう良いことを提供できなくなったら、つまりもし死ななかったら経験できたはずのことを足し合わせたらプラスではなくマイナスだったとしたら、そのとき、死ぬのはじつは悪いことではなく良いことになる。
死は、良いものとなるはずだった人生の一時期を奪うときには悪いものだ。だが、悪いものとなるはずだった将来を奪うなら、じつは死はけっして悪くはなく、良いものなのだ。

ところで、以上を述べるにあたって、明らかに前提にしていることがある。それは、少なくとも、原則として、人生の質、すなわち自分がどれほど良い境遇にあるか、あるいは、なるだろうかという点に関してこの種の全体的な判断を下すことができるという前提だ。

では、その判断を下す基準は何か?

その一つの基準が、快楽主義です。

 「それ自体のために手に入れる価値があるものとは何か? それ自体が持つに値するものとは何か?」

快感は本質的に良いものと悪いものとを並べたリストに入るもののーつで、痛みもリストに入るものの一つであるだけでなく、そのリストには快感と痛みしか載っていないと主張するとしよう。本質的に価値のある唯一のものは快感であり、本質的に悪い唯一のものは痛みだと仮定するのだ。その見方は、「快楽主義」と呼ばれる。

「それ自体が持つ〜」とはどういう位mでしょうか?
お金をあげるとすると、お金はそれ自体が持つ良し悪しではありません。しかし、お金があれば、人生を楽しむことができます。反対にお金がなければ貧困に苦しみます。

その点、本質的に価値のある唯一のものは快感であるとすると、
人生の良し悪しは、次の数式で考えられます。
快感−痛み=「+ 」or「−」
「+ 」なら、人生は生きるに値する
「−」なら、死はけっして悪くはない

と、過去を振り返っても、これからの未来を考えても、人生の物事を単純に「快感」と「痛み」に明快に区別することはできません。だから、この[第12講]死が教える「人生の価値」の測り方などあるわけがありません。

シェリー先生もこう書いています。こう考えれば、少しは役に立つかもしれません。

 だから、こう問いかける。自分が選び取れるさまざまな選択肢のうちのどれが、快感と痛みという点で、より良い将来、より良い境遇に導いてくれそうか? そして、良かれ悪しかれ、精一杯やってみる。そのような比較検討を行なうために、最善を尽くすのだ。
自分の残りの人生全体や大学進学だけでなく、次の一年、あるいは半年、さらに言えば今夜だけでも、どうなるかを考えることができる。
今夜は家で執筆に取り組むべきだろうか?それともパーティーに行くべきか?

また、「快楽主義が間違っているのは、本質的に重要になるのは快感と痛みだけであるとしている点だ」と述べています。

 人生には快感ばかりで痛みがないことより、もっと大切なことがあるからだ。というか、私にはそう思えるのだ。

「もっと大切なことがある」ことを考えるのに、反証としてロバート・ノージックが提唱した思考実験を取り上げます。

ロバート・ノージックが提唱した思考実験

仮定の話。どうして哲学は、仮定の話が多いのだろうか?

完全ヴァーチャル・リアリティの世界で、何から何まで現実そっくりの完全そのもの疑似体験ができる方法を開発したとしよう。その装置で、自分の望む快楽が、全く現実と同じように得られるとしたらの話です。映画『マトリックス』のような悪い状況は想像しないでください、とシェリー先生は断っています。

あなたは、その装置で得る完璧な人生の快楽すべてを望みますか?
この答えが「イエス」の代表的な人物が、映画『マトリックス』のサイファーです。彼は、マトリックスの世界で恵まれた人生を送るために、ネオたちを裏切ったのです。

普通なら、ほとんどの人の答えは「ノー」でしょう。現実ではないので、何かが欠けていると。

では、「完壁な人生に欠けているもの」の正体とは?

 体験装置での人生に欠けているように見えるものとして、以下のことが言える。第一に、私たちには何一つ実績がない。さらに、自己についての知識がない。私たちは愛情に満ちた関係に身を置いていない。
 境遇の良し悪しを適切に説明するのなら、そこにはこれらも、それに通常伴う経験に加えて、価値あるものとして含まれると考えるのが妥当に思える。

楽観主義者、悲観主義者、穏健派の意見

「人生は常に生きる価値がある。存在しないことに、いつでも優る」
楽観主義者はそう考える。

「私たちはみな、死んだほうがましだ。それどころか、誰にとっても、そもそもまったく生まれなかったほうが良かっただろう」
悲観主義者はこう言う。

「一概には言えない。差し引きがプラスの人もいれば、マイナスの人もいる。そしてそれは、人生全体についても、人生の特定の時期についても当てはまる」
楽観主義者と悲観主義者の間に、穏健派はそう言う。

 この議論をどう解決するにせよ、これら三つの立場がすべて共有している前提がもうーつあることに注目してほしい。生きているのがどれほど良いことかは、人生の中身と呼べるものをすべて合計して求められるという前提だ。
痛みと快感、実績と失敗(など、など)を合計し、総計を求める。そうすれば人生の価値を決められる。人生の中で起こっていることが重要なのだ。生きていることそのものには価値がない。実際には、人生は器にすぎず、私たちはさまざまな良いこと、悪いことでそれを満たしていく。そして、人生にどれだけ価値があるか、生きていることが自分にとってどれほど良いかは、中身の価値の合計で決まる。器そのものは、文字どおり器にすぎない。それ自体には価値はない。

私がここまで前提としてきたものは、人生の価値の「ニユートラルな器説」と呼べるかもしれない。快楽主義はこのニユートラルな器説の一バージョンだ。どれほど良い境遇にあるか、人生にどれだけの価値があるかは、中身、すなわち快感と痛みで決まる。

ニユートラルな器=生
果たして、この器自体は良いものなのか?
そしてまた、「なぜ死は悪いのか」を問い直します。[第12講]は何が言いたいのか? よくわかりませんでした。(すみません)

[第12講]死が教える「人生の価値」の測り方 目次

人生の良し悪しは、何によって決まるのか/本質的に良いもの、悪いものとは?/プラスとマイナスの計算から人生の価値を測る/快楽主義に対するシェリー先生の見解/快楽は、私たちの人生に価値を与える唯一絶対のものになりうるか/望みどおりの最高の体験ができる装置の中の人生は、完壁か/「完壁な人生に欠けているもの」の正体/あなたの人生は、プラスとマイナスどちらに振れる?/「人生そのもの」にどれほどの価値があるのか/ただ生きているだけで生じる価値とは?/そしてまた、「なぜ死は悪いのか」を問い直す/「みないずれ死ぬ」は恩恵——ただし、問題は死が訪れる時期にある