人によって恵まれない生まれの事情⁉︎

スピリチュアリズムから見る人の生まれの事情⁉︎

全部が学びに必要なカリキュラム

生まれの事情はさまざまで、親がいればいるなりの悩みが、いなければいないなりの悩みが生まれます。命にかかわること、生き死ににかかわることは、かなり多くのパーセンテージで「宿命」であることが多いのです。ほとんどと言ってもいいぐらい「宿命」です。その一面だけを見てしまうと、不公平で、どうにもならないと思ってしまいます。でも、そこで味わう苦難は、トータルに見れば平等なものなのです。人生にはムダはなくて、全部が学びに必要なカリキュラムなのです。

魂は、さまざまや役割を経験したくて、自らレパートリーを選んでいるのです。それは、まるでバトンリレーのようなもの。今だけを見るのではなく、来世へとも続いていく、“魂の学び”の過程にある、という理解が必要です。魂の長い視点で見れば、みな平等。あらゆる役割を経験するのですから、どちらが幸せで、どちらが不幸ということもありません。

「本当に、今の日本人は幸せなのか」

生まれの事情には、国の違いもあります。どうしてひどい戦争のある地域に生まれる人と、平和な日本に生まれる人とがいるのか。飢える国に生まれる人と、食べ物を捨てるほど豊かな国に生まれる人がいるのか。

しかし、見方を変えると、「本当に、今の日本人は幸せなのか」という疑問が湧いてきます。戦争もなく、飢えてもいないこの日本でも、理不尽な事件などに巻き込まれ、何の罪もない人が殺される現実があります。

現代は「心を殺される」「心の乱世」

なによりも、現代は「心を殺される」「心の乱世」です。毎日のようにインターネットやらメールやらで飛び交う殺伐としたニュースや中傷など。心を失い、心の殺し合いが日常的に行われています。

最も不幸な死とは何かと言えば、誰からも看取ってもらえなかったり、孤独に死んでいくことだと思います。とすると、今のこの国が、まさにそういう状態なのです。孤独死や、誰からも必要とされない、悲しまれない、惜しまれない死を迎える人、ただ通りすぎていくだけの人として孤独死している人が、この平和で豊かであるはずの日本において増えてきているのです。

戦争があっておちおち寝てもいられないような国の人がいる。今日明日の死を意識せざるを得ない国の人がいる。銃撃戦に巻き込まれた父と子の有名な映像がありますね。父親は一生懸命子どもをかばおうとしますが、二人とも撃たれて死んでしまいます。でも、その一瞬の出来事の、一瞬に込められた「想い」というものがものすごく大きいものだと私は思います。ただ「長く生きていればそれでいい」というわけではなく、大切なのは、一瞬でもいい、「どれだけ輝きをあらわせてこの世を去れたか」なのです。

私はもちろん戦争には反対です。ただ、死はまさに「万人に与えられた平等」です。

誤解を恐れずに申し上げると、「生きているか死んでしまったか」については、あの世の人たちはほとんど頓着がありません。なぜかというと、「魂に死はない」からです。死ぬということはふるさとに帰るだけですから。世間の人はみんな物質主義的価値観にとらわれて、見た目の死に方に惑わされているだけなのです。

『江原啓之 スピリチュアリズムを語る』(2009.12)より

終わりに。心愛さん虐待死も平等?

『苦難は、トータルに見れば平等なものなのです。人生にはムダはなくて、全部が学びに必要なカリキュラムなのです』
と、江原啓之さんは書かれていますが、小学4年の栗原心愛(みあ)さん虐待死は、なかなか「トータルに見れば平等」「人生にはムダはなく」とは思えません。

そう理解できない私は、スピリチュアリズムの本質が理解できないからかもしれません。「魂に死はない」かどうかも、死ぬまで理解できないと思います。

しかし、江原啓之さんはこう書かれています。
「逃げ」さえしなければ、「いつか必ず気づきはやってきます」

小4女児・心愛さん虐待死事件で父親初公判、不可解な弁明の真意とは
「未来のあなたを見たいです。あきらめないで下さい」――。死亡する3カ月前、自分への手紙をしたためていた小学4年の栗原心愛(みあ)さん(当時10)。そんなささやかな願いを断ち切ったとして、傷害致死罪などに問われた父親の勇一郎被告(42)の初公判が2月21日、千葉地裁(前田巌裁判長)で開かれた。罪状認否で「罪は争わない」としたものの「飢餓状態にしたり冷水をかけたりしていない」と、死亡に至らしめた行為を否認するなど不可解な弁明を展開した。
事実は既に決着、争点は量刑だけ。
https://diamond.jp/articles/-/230123

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